武将

小野寺輝道(小野寺景道)

小野寺景道(おのでら-かげみち)は、出羽・湯沢城主である戦国大名・小野寺稙道の4男として1534年に生まれました。
小野寺輝道とも言います。

父・小野寺稙道は横手城に本拠を移そうとしますが、1546年5月27日、金沢八幡の別当・金乗坊、横手城主・大和田光盛(横手佐渡守)ら家臣の権力闘争に巻き込まれ、湯沢城に追い詰められて暗殺されます(平城の乱)。
そのため、小野寺輝道(小野寺景道)が家督を継ぎますが、羽黒山に逃れたあと、鶴ヶ岡城(大宝寺城)の大宝寺義増を頼っています。
この縁もあり、正室は大宝寺氏の娘の模様です。
そして、稲庭城主ら小野寺一門、大宝寺氏や佐々木貞綱(鮭延貞綱)の協力を得て、旧領回復を試み、大和田光盛らを討ち取り、横手城に戻っています。
この時、八柏館主の八柏道為が知略を持って大いに活躍したと伝わり、八柏道為には出羽・湯沢城を任せています。

また、横手城の城下町を整備し、沼館城には兄(庶子)とされる大築地秀道、浅舞城主には長男・小野寺光道、西馬音内城には庶子の小野寺茂道、大森城には3男・小野寺康道などの支城には小野寺一族を配置して支配を固めました。
小野寺氏は54000石前後と最盛期を築いています。
横手城が攻撃を受けたこともありましたが、八柏道為の知略もあり、小野寺景道は守りきっています。
しかし、安東愛季戸沢盛安最上義光らと周りは敵だらけでした。
1581年には、鮭延城主・鮭延秀綱が最上勢の氏家守棟から攻撃を受けて降伏しています。

1582年には上洛して織田信長に拝謁していますが、1583年に家督を小野寺義道に譲り、隠居したようです。
その後の様子よくわかりませんが、1597年に小野寺輝道(小野寺景道)は亡くなっています。

出羽・湯沢城 小野寺経道の本拠地で佐竹南家が整備した山城
小野寺義道 仙北一揆で所領を減らし関ケ原の戦いで改易
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八柏道為 小野寺氏を最盛期に導いた軍師
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小野寺十内(小野寺秀和) 赤穂浪士

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