武将

戸沢政盛

戸沢政盛(とざわ-まさもり)は、戦国時代の1585年に角館城主・戸沢盛安の長男として生まれました。
父・戸沢盛安は正室を持たなかったため、戸沢政盛の母は百姓である源左衛門の娘となります。

この百姓・源左衛門の娘は、戸沢盛安が鷹狩をした際に、見初めた小古女沢の身分の低い女性でした。
そのため、長男として誕生した戸沢政盛は嫡子として認められず、母も側室にならずに、東光坊という山伏に嫁いだため、戸沢政盛は百姓の子として育ったと言います。
しかし、父・戸沢盛安が、1590年に小田原参陣中に病没し、あとを継いだ叔父の戸沢光盛も、肥前・名護屋城に赴く途中、姫路にて病没したため、一転して戸沢家は断絶の危機に見舞われます。
そのため、戸沢家の家臣らは、東光坊を斬って戸沢盛安の遺児・戸沢政盛を奪い、急いで豊臣秀吉に謁見させると、家督相続が認められました。
この折には、戸沢光盛の正室・大森御前(楢岡光清の娘か妹)が養母として付き添ったと言います。

豊臣秀吉の死後は、鳥居忠政の娘・真室御前(巨川院)正室に迎えて徳川家康に接近します。
そして、1600年、関ヶ原の戦いの際、戸沢政盛は上杉景勝の東禅寺城(亀ヶ崎城・酒田城)を攻略する戦功を挙げました。
しかし、秋田勢を警戒してあまり積極的ではなかったことを咎められて、1602年、常陸多賀郡、茨城郡などに4万石で、常陸・小川城主(小河城)となり、常陸・松岡藩を立藩しました。
1606年、多賀郡下手綱の竜子山城を改修すると、常陸・松岡城と改めて本拠にしています。
1615年、大坂夏の陣の際には、江戸城の守備を任されました。
1622年には、山形藩の最上家が改易され、山形藩主となった鳥居忠政を旗頭として、領地が縁戚に与えられ、戸沢政盛は6万石となって新庄藩主になりました。
1625年、山形藩主・鳥居忠政の次男である戸沢定盛を養子に迎えて後継に定めています。
1648年、閏1月22日に戸沢政盛は死去しました。享年64。

なお、養子の戸沢定盛が早世していたことから、実子の戸沢正誠が継いでいます。

戸沢盛安 鬼九郎(夜叉九郎)の異名を得るも25歳の若さで
角館城 6歳で家督を継いだ戸沢道盛の復活劇

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