武将

岩城貞隆

岩城貞隆(いわき さだたか)は、常陸の戦国大名・佐竹義重の3男として1583年に生まれました。
母は正室である伊達晴宗の娘・宝寿院で、兄に佐竹氏の家督を継ぐ佐竹義宣、白河義親の養子となったのち蘆名義広と称した次兄、そして、下妻城に入った多賀谷宣家(岩城宣隆)などがいます。
1590年、佐竹陣営の一角である飯野平城主・岩城常隆は、豊臣秀吉の小田原攻めにて小田原に参陣します。
しかし、相模国星谷にて病死(享年24)すると、豊臣秀吉の意向で岩城貞隆が、12万石の岩城家を継ぐことになりました。
正室は相馬義胤の娘で、のち佐竹の久保田藩2代藩主となる佐竹義隆が1609年に生まれています。

1600年、関ケ原の戦いにて、岩城貞隆は最初、徳川家康に従っています。
しかし、佐竹宗家の兄・佐竹義宣が、上杉景勝の征伐へ参加しなかったため、中立の立場を取りました。
そのため、1602年、佐竹義宣と共に処分が下され、佐竹家は減封となりましたが、岩城貞隆は全ての所領没収・改易となりました。

この仕打ちに大きく不満を抱いた岩城貞隆は、兄・佐竹義宣に挙兵を求めましたがそれも拒否されたため、浪人して江戸の浅草に滞在したと言います。
なお、浅草に同行した忠実な42名の家臣が「岩城貞隆浅草御浪人中随身諸士名元覚」として記録されています。
好間兵部大輔、佐久間総右衛門、大館帯刀、高橋五郎右衛門、大塚内蔵頭、鵜沼主馬、服部監物、新妻久左衛門、中山采女、佐藤右近、加瀬太郎兵衛、古宇田新助、秋山采女、中山主殿、八嶋宮内、諸橋玄蕃、大館備前、駒木根茂兵衛、志賀八左衛門、小泉九郎左衛門、小河甲斐守、白土右馬助、鵜沼彦右衛門、戸嶋重右衛門、同九郎兵衛、同 右衛門、半田佐左衛門、塩 左馬助、大平新左衛門、駒木根七郎右衛門、田中蔵人、四倉下野、富岡伝七、白土孫七、鵜沼図書、白石又右衛門、大須賀織部、志賀内記、斎藤兵左衛門、長谷左門、三浦七兵衛、志賀太郎左衛門。

なお、妻の実家である相馬家が再興を果たしたことから、岩城貞隆も岩城家再興を願い、土井利勝や天海らに嘆願しました。
その結果、本多正信の預かりとして300人扶持となり、1615年には大坂夏の陣にて戦功を挙げました。
この功績により、1616年、松平忠輝が改易されたあとの信濃中村藩1万石として、大名に復帰しています。

仲たがいしていた兄・佐竹義宣とも、母・伊達晴宗の娘の仲介にて和解し、資金などの提供を受けました。

岩城貞隆は1620年に死去。享年38。
その後、嫡男の岩城吉隆(佐竹義隆)が家督を継ぎますが、1623年に、出羽・亀田藩2万石として移封となり、以後、岩城家は出羽・亀田城で幕末まで続きました。

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