武将

佐竹義久

佐竹義久(さたけ-よしひさ)は、戦国時代の武将で、東義久とも言います。
父は、常陸の戦国大名・佐竹氏の一族になる佐竹東家・佐竹義堅(武熊城主)であり。1554年に2男として生まれました。

常陸・太田城佐竹義重に従い外交や戦功を挙げていました。

特に、小田原城の北条家に対抗するため梶原政景・太田資正らと、武田勝頼の重臣・跡部勝資などとの交渉を行い、甲佐同盟にも尽力しました。
このように、佐竹氏の数多い一族の中でも重用され、伊達政宗など陸奥方面に対しての佐竹勢を任されたりしています。

のち豊臣秀吉や石田三成と懇意になり、小田原攻めの際にも佐竹義宣と共に参陣し、豊臣家直轄地の代官に任命されています。
そして、1591年には豊臣姓を下賜されました。
また、水戸城の大改修の際には、普請奉行を務めています。

朝鮮攻めの際には、1593年に、佐竹義久が佐竹勢1440名の総大将として出陣しています。
これらの忠義が認められ、佐竹義久は豊臣秀吉から直接、常陸国の鹿島郡・真壁郡に6万石を与えられ、豊臣直轄領1000石の代官も兼務することになり、独立大名と同じ処遇となりました。

1600年、関ヶ原の戦いで、佐竹氏はほぼ中立の立場をとったため、佐竹義宣の命を受けて、佐竹義久が徳川秀忠の援軍として上田城攻めなどに参加しました。

その後、徳川家康な釈明や謝罪などの交渉にも尽力し、佐竹本家の本領安堵を取り付けたと言われています。
しかし、その直後に死去しました。享年48。
病死ともされていますが、徳川家から佐竹本家当主を、佐竹義久に代えられるのではないかと、憶測を呼んだため、佐竹家によって暗殺されたともされます。

佐竹東家の家督は長男・佐竹義賢が継ぎましたが、徳川家からの本領安堵は破棄され、年に佐竹家は秋田の久保田城に左遷されることになりました。

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