武将

天下布武「織田信長」の好きになれないその理由

織田信長

日本人でその名を知らない者はいないくらい有名な戦国武将・戦国大名の織田信長(おだのぶなが)ですが、好きな武将だと挙げる方も多いと存じます。
私自身、織田信長のことが決して嫌いではなく、どちらかと言えば好きな武将です。
ただし、信長ほど、好きな人もいれば、嫌いな人もたくさんいると言う、評価が両極端な武将も珍しいと存じます。
そんな理由から、ここではあえて、好きになれない側の立場・アンチに立って、織田信長と言う人物を再度考察してみたいと存じます。

なんと言っても、織田信長の功績としてよく知られるのは、桶狭間の戦いにて今川義元を討ち果たしたことだと存じます。
織田信長が27歳のときになります。
しかし、織田信長は父が死去し、18歳頃に家督を継いでから、順風満帆に当主を務めてきた訳ではありません。
若い頃の織田信長は、鳴海城主、山口教継・山口教吉の親子に裏切られたり、清洲城で家老を務めていた坂井大膳らに松葉城と深田城を奪われたり、困難に直面していました。
その頃、尾張には尾張守護代・織田大和守家と言う、織田信長から見れば、織田家の宗家がまだ清洲城にて健在だったのです。

織田信長の織田家は、もともと尾張国守護の斯波義統の家臣です。
斯波氏の家臣である織田家も分家がいくつもあり、清洲織田氏(織田大和守家)を筆頭に岩倉織田氏(織田伊勢守家)、そして織田信長の父・織田信秀が急速に勢力を拡大した勝幡織田氏(織田弾正忠家)が主な面々でした。
要するに、同じ一族での内紛状態のところに、東からは今川義元の圧迫も受けるようになります。
切羽詰まった状態だったのでしょう。
将来を危惧した傅役の平手政秀も自刃して、織田信長に目を覚ますようにと促しているくらいです。

この状況を打開するため、まずは清洲織田氏の織田信友を討ち、本拠を清洲城に移しました。
しかし、そのようなやり方には反発を招くもので、末森城主である弟・織田信行(織田信勝)のほうが当主に相応しいと、重臣の柴田勝家、林秀貞、林通具らが謀反を起こします。
頼りの斎藤道三も子の斎藤義龍との戦いに破れて敗死し、林通勝の弟・林通具は、織田信長を暗殺しようとしたくらいです。
稲生の戦いとなりましたが、佐久間盛重・森可成佐久間信盛前田利家丹羽長秀・織田信房らの奮戦もあり、劣勢だった織田信長は勝利します。
そして、一度は助命した弟・織田信行(織田信勝)は再び謀反を企てますが、この時は柴田勝家の密告があり、先手を打って織田信行(織田信勝)を殺害しました。
また、岩倉城の岩倉織田氏である織田信賢も破ると追放し、敵対していた一族を平定しました。
織田信長24歳のときになります。
そして、500の軍勢にて織田信長は上洛すると、室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見しますが、どうやら、尾張の新しい統治者だとは認めてもらえなかったようです。
尾張に返っても心休まることは無く、今度は、今川義元が3万ともされる大軍にて侵攻したのです。

1560年、僅かな手勢にて奇襲攻撃をし、桶狭間の戦い(おけはざま)にて、今川義元を討ち果たすと言う大戦果を挙げました。
1565年には、謀反を起こした犬山城の織田信清を攻めて、織田信長は30歳でついに尾張を統一します。

しかし、これらのことでわかるように、家督を継いでから10年間のあいだ、謀反に次ぎ謀反と、度々、裏切りにあってきましたが、その都度、クリアしてきたのは、まさに織田信長のスゴイところと言えます。
でも、織田信長は、自ら生き残るためには、どうすればよいのか?、身をもって学んだのでしょう。
敵と言う敵は、徹底的に排除して行くしかないと、悟ったのではと感じてしまいます。
そのため、家臣らにも厳しく、常に成果を求めて、失敗を許さなくなっていったものと推測致します。
もちろん、功績のある者は、木下藤吉郎(豊臣秀吉)のように、加増するなど身分関係なく評価しましたが、更なる貢献を求めました。

その結果、織田家の勢力は、 破竹の勢いで拡大して行き、美濃・稲葉山城斎藤龍興小谷城浅井長政、越前・一乗谷城朝倉義景観音寺城の六角義賢など周辺勢力を制圧し、天下人に最も近い存在となりました。
もう、この頃には、桶狭間の戦いのときにように、織田信長が自ら先陣を切って戦うようなことはしておらず、危機的状況であった金ヶ崎の戦いの際にも、殿(しんがり)を明智光秀・豊臣秀吉に任せて、逃げています。
すなわち、生きることに執着しており、これまでしてきたことも、これから行う事にしても、自らが日本を統治するんだと言う意気込みが垣間見えます。
しかし、そのやり方は、敵対する勢力は、比叡山でも、一向宗の石山本願寺でも高野山でも、組しない者は、徹底的に排除すると言う手法でした。
その方法が間違えだとは申しませんが、かなり強硬な手段として映ったのには違いありません。

でも、織田信長のその強さを信じてついてきた家臣らは、そうとう頑張ったはずです。
ところが、徳川家康の嫡男・松平信康に対し切腹を命じたともされ、本願寺攻めで成果が上がらない佐久間信盛を追放したりと、粗暴な面もあり、家臣らは明日は我が身とも考えたはずです。
林秀貞をはじめ、安藤守就、丹羽長秀の跡を継いだ丹羽氏勝らも追放するなど、人を大切にしていません。
かつて、ないがしろにされたからか、朝廷からの官位も受けず、独自の単独統治を目指すような動きも見せました。

こうなって来ますと、織田信長は、何を考えているのか、家臣らにも分からなくなってきてしまいます。
そのため、織田信長のお陰で出世した有岡城主・荒木村重が織田家に対して謀反を起こしました。
織田信長は、荒木家の娘・子女まで一族36人を六条河原で斬首しています。

それでも、甲斐の武田勝頼を滅ぼして、まさに天下まで目前にと迫りましたが、その状況がかえって織田信長の身を危うくしました。
1582年、明智光秀による本能寺の変となります。

明智光秀も織田信長のお陰で家中随一とも言える武将となりました。
しかし、織田信長に対して不満と言うよりは、危惧の念を抱いていたものと推測致します。
このまま織田信長が天下人になってしまっては、日本は民や朝廷は、もっとひどい目に合うのではないかと・・。
でも、そのような織田信長にしてしまったのは、戦国と言う時代であり、若いころ、たくさんの裏切りを受けるなど、非常な事をされてきたからだと感じずになりません。

以上ですが、戦国の世とは言え、伊勢の一向一揆衆、また比叡山の焼き討ちと、多くの人を殺害してきた織田信長のやり方、そして、成果を上げられない部下を排除していくような手法は、やはり、好きにはなれません。
ただし、ただしですよ。
仮に、私が織田信長の立場であったら、そこまでできなかったと思いますので、恐らく、歴史に名を残すことも無く、攻められて討死でもしていたと思います。
周りから、良い人だと言われているだけでは、生き残れない時代です。

そのように考えますと、方法はともかく、織田信長がここまで勢力を伸ばしたと言う実力は、とても偉大なものに感じます。
あの世では、あとから来た豊臣秀吉に対して、織田家をないがしろにしたのは、どういうことだと、叱っている事でしょうが・・。

以上、3分で読めるサイト記事としては、異例の長さになってしまいました。
最後までご覧頂けましたこと、深く感謝申し上げます。

皆様からも織田信長に対して、何かご意見・ご感想があれば、下記のコメント欄にでも賜りますと、嬉しく存じます。

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